●1976年、ピンク・レディーの『ペッパー警部』の衝撃的「恥辱エロティシズム」。
●1976年、ピンク・レディーの『ペッパー警部』の衝撃的「恥辱エロティシズム」。
末尾ルコ「昭和文化史とエロティシズムの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
1976年はアントニオ猪木がモハメッド・アリと「格闘技世界一決定戦」を挙行した年だ。
猪木VSアリは1976年の6月であり、8月にはピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビューしている。
わたしはピンク・レディーのファンだったことはないが、そのデビュー当時のことははっきりと覚えている。
確か『スター誕生』の中で歌ったのだと思うが、その辺りの記憶は曖昧だ。
『スター誕生』と言っても、もちろんジュディ・ガーランドの『スター誕生』でもなかれば、バーブラ・ストライザンドの『スター誕生』でもない。
萩本欽一が司会の芸能界オーディション番組であり、合格者が出なかった週は萩本欽一が「ばんざい、なしよ」と言っていたと記憶している。
ピンク・レディーのファンだったことのないわたしがなぜそのデビュー時、「ペッパー警部」を歌う姿を今でもはっきりと記憶し、尚且その時間の衝撃を実感として持ち続けているのか?
それは次の2要素からもたらされた衝撃だった。
1歌っている最中、あまりに短すぎるスカートの中がテレビに映る。
2そんな短いスカートであるのに、アクションの中に「がに股ポーズ」が含まれている。
「1」 に関して言えば、当時の子どもであるわたしには、「見せるための下着か、普通の下着か」の区別などまったく知らず、(ええ?女の人たち、白昼堂々パンツ見せていいのか?)という衝撃であり、そのインパクトは強烈だった。
「パンツ」というのがいわゆる「ズボン」ではないことは言うまでもない(と言う割にはきちんと書いているのが、わたしの律義さだ)
そして「2」の「がに股ポーズ」。
「女性ががに股ポーズなんてふしだらだ」とかいうレベルの話ではない。
当時の高知に住む子どもであるわたしにとって、「人前でがに股ポーズ」を見せるなど、男子とっても女子にとっても、「とてつもない恥辱」・・・そんな確固たる意識を持っていたわけであり、そうした意識はほとんどの子どもたちに共通していた、そんな時代だったのだ。
末尾ルコ「昭和文化史とエロティシズムの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」
1976年はアントニオ猪木がモハメッド・アリと「格闘技世界一決定戦」を挙行した年だ。
猪木VSアリは1976年の6月であり、8月にはピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビューしている。
わたしはピンク・レディーのファンだったことはないが、そのデビュー当時のことははっきりと覚えている。
確か『スター誕生』の中で歌ったのだと思うが、その辺りの記憶は曖昧だ。
『スター誕生』と言っても、もちろんジュディ・ガーランドの『スター誕生』でもなかれば、バーブラ・ストライザンドの『スター誕生』でもない。
萩本欽一が司会の芸能界オーディション番組であり、合格者が出なかった週は萩本欽一が「ばんざい、なしよ」と言っていたと記憶している。
ピンク・レディーのファンだったことのないわたしがなぜそのデビュー時、「ペッパー警部」を歌う姿を今でもはっきりと記憶し、尚且その時間の衝撃を実感として持ち続けているのか?
それは次の2要素からもたらされた衝撃だった。
1歌っている最中、あまりに短すぎるスカートの中がテレビに映る。
2そんな短いスカートであるのに、アクションの中に「がに股ポーズ」が含まれている。
「1」 に関して言えば、当時の子どもであるわたしには、「見せるための下着か、普通の下着か」の区別などまったく知らず、(ええ?女の人たち、白昼堂々パンツ見せていいのか?)という衝撃であり、そのインパクトは強烈だった。
「パンツ」というのがいわゆる「ズボン」ではないことは言うまでもない(と言う割にはきちんと書いているのが、わたしの律義さだ)
そして「2」の「がに股ポーズ」。
「女性ががに股ポーズなんてふしだらだ」とかいうレベルの話ではない。
当時の高知に住む子どもであるわたしにとって、「人前でがに股ポーズ」を見せるなど、男子とっても女子にとっても、「とてつもない恥辱」・・・そんな確固たる意識を持っていたわけであり、そうした意識はほとんどの子どもたちに共通していた、そんな時代だったのだ。
この記事へのコメント
ただ、ピンクレディーは子どもが衣装も含めて真似できるアクションなのに比べ、たとえば後続のキャッツアイはよりエロ度が強かったので、むしろピンクレディーは私にはマイルドな感じがしました。
ピンクレディーは、レコード時代の生涯セールスは森進一や山口百恵などを抑えて第1位になるほど現役時代は殺人的スケジュールであるにも関わらず、解散まで頑張ったプロ根性もよかったですね。キャッツアイも、80年代前半に出てきたデュオのベイブも、ハードな仕事についていけず、長続きしなかったですよね。
所属事務所社長だった貫泰夫氏の計画では、1年目に新人賞、2年目に大衆賞、3年目にレコード大賞、そして紅白をぶっ飛ばせ!という計画があったらしいのですが、78年の紅白を辞退したら彼女たちは急に落ち目になり、81年の解散時は、キャンディーズのような熱狂的な解散コンサートにはならず、阿久悠氏をして「解散は1年遅かった」といわしめたそうで、紅白の威光と芸能界の厳しさを知ることとなりました。
まあせっかく売れていたのに、アメリカでレコーディングするとか言い出してそれがうまくいかず、かつターゲットを子供から大人へ路線変更したことがうまくいかなかったことなどがあり、紅白辞退が凋落の直接の原因ではないと思いますが。
私個人は、絶頂期にあった頃のお子様向けよりは、凋落のきっかけになったと言われるジパングとか、ピンク・タイフーンあたりの方がしっくりきました。