●わたしは涙が込み上げるのを抑えきれなかった~あまりに凄い『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』。
わたしは涙が込み上げるのを抑えきれなかった~あまりに凄い『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』。
末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を磨くレッスン」
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』を観て、そのクライマックス、
わたしの目には涙が込み上げてきた。
もう、とてつもなく素晴らしい作品だった。
わたしは昨今の日本映画の「号泣・絶叫シーン」が大嫌いで批判し続けているし、映画を離れても、「涙活」なんていう言葉や行動も大嫌いである。
「泣くこと」を否定しているわけではない。
しかし、「泣く」のは何かしらの大きな感情の動きの結果であって、「泣くこと」自体が目的化するのは違うと思うし、それ以上に、(こんなシーンを入れておけば、こんなストーリーにしておけば、観客は泣くだろうな)という作品の作り方が大嫌いで、そういう作品は作りての意図が見え見えなのである。
もちろん山田洋次作品、『男はつらいよ』はそうして下卑た浅ましい昨今の映画とは別世界、比較しようもないほど格が違う。
出演者の誰も大袈裟な演技などしないし、まして号泣も絶叫もない。
それどころかいつも通り、随所で大いに笑わせてくれる。
なのに、とりわけこの『寅次郎純情詩集』は、どうにも涙が込み上げるのを抑えられない。
「本物の感動」とは滅多に訪れるものではないのだ。
「本物の感動」とは、魂を揺さぶられるものであり、様々な人生経験を積んだ人間でも、いや積んだ人間だからこそ、涙を抑えくれなくなる・・・そういうものではないか。
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』は、二人の女優を迎えている。
一人は檀ふみ、そしてその母親役に、大女優中の大女優京マチ子。
現在94歳の京マチ子の怪物的な実績については今回敢えて語る必要もないだろう。
そんな彼女は、「寅次郎純情詩集』では、ここは敢えて結末を書くけれど、病気で死んでいく役である。
それを知っていたのは、娘(檀ふみ)とさくら(倍賞千恵子)だけ。
しかも彼女は、「お家再興」のために好きでもない戦争成金と無理矢理結婚させられ、病気になり離婚している。
本当に笑ったことなどなかった人生、彼女は寅次郎と束の間心を通わせ、その間、大いに笑う。
彼女の自宅の縁側と庭先のシーンが素晴らしい。
閉ざされた、この世のものとは思われない雰囲気で、しかもいつも何枚か落ち葉が空間を舞っている。
それは例えばOヘンリーの「最後の一葉」、あるいはチェーホフの世界観さえ感じさせられる雰囲気である。
クライマックス、しかし彼女は呆気なく死んでしまうし、「死ぬシーン」を山田洋次は見せない。
キリスト教会での葬儀、そして数日後娘のもとを訪ねる寅次郎は、
「寅さんはもしかして、お母さんを愛していたの」と尋ねられる。
動揺した寅次郎は、声を詰まらせながら、
「とんでもねえですよ」と答える。
娘は、
「誰にも愛されたことなかったお母さんは、ひょっとしたら寅さんに愛されていたと思っていたのかもしれない。死ぬ直前も、元気になって、寅さんと会おうねと言っていたのよ」
という意味のことを言う。
何という深い、「愛」に関する命題だろう。
凄い、本当に凄い。
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』。
末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を磨くレッスン」
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』を観て、そのクライマックス、
わたしの目には涙が込み上げてきた。
もう、とてつもなく素晴らしい作品だった。
わたしは昨今の日本映画の「号泣・絶叫シーン」が大嫌いで批判し続けているし、映画を離れても、「涙活」なんていう言葉や行動も大嫌いである。
「泣くこと」を否定しているわけではない。
しかし、「泣く」のは何かしらの大きな感情の動きの結果であって、「泣くこと」自体が目的化するのは違うと思うし、それ以上に、(こんなシーンを入れておけば、こんなストーリーにしておけば、観客は泣くだろうな)という作品の作り方が大嫌いで、そういう作品は作りての意図が見え見えなのである。
もちろん山田洋次作品、『男はつらいよ』はそうして下卑た浅ましい昨今の映画とは別世界、比較しようもないほど格が違う。
出演者の誰も大袈裟な演技などしないし、まして号泣も絶叫もない。
それどころかいつも通り、随所で大いに笑わせてくれる。
なのに、とりわけこの『寅次郎純情詩集』は、どうにも涙が込み上げるのを抑えられない。
「本物の感動」とは滅多に訪れるものではないのだ。
「本物の感動」とは、魂を揺さぶられるものであり、様々な人生経験を積んだ人間でも、いや積んだ人間だからこそ、涙を抑えくれなくなる・・・そういうものではないか。
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』は、二人の女優を迎えている。
一人は檀ふみ、そしてその母親役に、大女優中の大女優京マチ子。
現在94歳の京マチ子の怪物的な実績については今回敢えて語る必要もないだろう。
そんな彼女は、「寅次郎純情詩集』では、ここは敢えて結末を書くけれど、病気で死んでいく役である。
それを知っていたのは、娘(檀ふみ)とさくら(倍賞千恵子)だけ。
しかも彼女は、「お家再興」のために好きでもない戦争成金と無理矢理結婚させられ、病気になり離婚している。
本当に笑ったことなどなかった人生、彼女は寅次郎と束の間心を通わせ、その間、大いに笑う。
彼女の自宅の縁側と庭先のシーンが素晴らしい。
閉ざされた、この世のものとは思われない雰囲気で、しかもいつも何枚か落ち葉が空間を舞っている。
それは例えばOヘンリーの「最後の一葉」、あるいはチェーホフの世界観さえ感じさせられる雰囲気である。
クライマックス、しかし彼女は呆気なく死んでしまうし、「死ぬシーン」を山田洋次は見せない。
キリスト教会での葬儀、そして数日後娘のもとを訪ねる寅次郎は、
「寅さんはもしかして、お母さんを愛していたの」と尋ねられる。
動揺した寅次郎は、声を詰まらせながら、
「とんでもねえですよ」と答える。
娘は、
「誰にも愛されたことなかったお母さんは、ひょっとしたら寅さんに愛されていたと思っていたのかもしれない。死ぬ直前も、元気になって、寅さんと会おうねと言っていたのよ」
という意味のことを言う。
何という深い、「愛」に関する命題だろう。
凄い、本当に凄い。
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』。
この記事へのコメント
すばらしいですね。48作の中ではどちらかというと評価される機会が少ない作品なのです。みんなリリーさんのときがいいとか三船敏郎のときがいいとか、たしかに私も三船敏郎と淡路恵子のときは開放的なまるで東宝映画のような寅さんでいいと思いましたけど、それとはまた別の良さがありますね。
山田洋次監督ですから、「子、動物、死(闘病)」を安易には使わないという考えはもちろんあったとおもいますが、それでも寅さんでそうしたストーリーを描いてみたかった気持ちがあって、それには大女優の京マチ子を置いてほかにない、ということだったのかもしれませんね。この時点で渥美清より年上でマドンナにふさわしく、かつ設定に合った女優というと限られてくるでしょうし、森光子や高峰三枝子ではちょっと違うし、高峰秀子でも……やっぱり京マチ子しかいないですね。
檀ふみがこの頃、ドラマで『俺たちの祭』に出ていて、劇団の経理係でしたが、ほんとはもっと華やかな仕事だってあるのに、過去に不倫に走った自分におびえていて、中村雅俊に対しても好きなのに近づけないでいる役でしたが、人に言えない苦悩をもつ役として山田洋次監督のお眼鏡にかなったのかもしれません。
>それ以上に、(こんなシーンを入れておけば、こんなストーリーにしておけば、観客は泣くだろうな)という作品の作り方が大嫌いで、そういう作品は作りての意図が見え見えなのである。
これでまず挙げたいのが、映画やドラマではないのですが「24時間テレビ」なのです。障害者をダシに使って感動しなさいといわんばかりの番組です。
以前、「24時間テレビ」が多くの人の批判を受けているというブログ記事を書いたら、「感動する番組だから全面否定するのは反対だ」というコメントが有って、いやもちろん意見は自由ですが、障害者を感動の道具に使った番組で感動したいっていう考え方は障害者に対する差別や偏見につながってないか、とよほど書こうとおもったのですがやめました。
>>>その情報を何の検証もなくコピペする健康情報ブログ
芸能情報とか健康情報とか、検索すると同じような内容の記事がズラーッと出ますよね。
一次情報が同じというより、たぶんコピペかせ繰り返されているので、どんどん劣化して最新の記事はますます間違った情報なんてことがあるんです。健康食品の業者が近年逮捕されるようになりましたが、デタラメ健康情報のコピペがお咎め無しというのも変ですね。
寅さん 両さん 共に どっかダメなところが好かれるんですかね
共通に感じるのは どっか芯があるところなんですけど
そこが愛されるんでしょうね